おはようございます。
同期会は楽しかったです。久々に皆んなの元気な姿を見て良かったです。手配は大変
だったと思いますが次回も宜しくお願いします。32名もの人が鬼籍に入っているとは思いもつきませんでした。
先日は詐欺の件をちょっと話しましたが大学4年の時に始まった旅行についてお知らせしたいと思います。ちょっと長くなります。
北欧の地図があれば用意して下さい。
1972年6月剣菱の一升瓶をニッピンのリュックに詰め込み横浜港からナホトカ号に乗り津軽海峡を超えニ泊三日の旅に出た。家族、友人達がそぞれのテープを握っての見送り。ESの大庭が埠頭の端まで走って行き米粒となって視界から消えた。帰りの切符は持ってない
。未知への旅が始まった。
3年前ネットでウィーンのことを調べてて偶然以前仕事で付き合ってた人の名前を見つけ、その会社が連絡しメールを回送した。
その時に私がその後どんな道を歩んだかを伝えました。1章〜4章まで続きます。
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武蔵大学四年になった22才1972年6月、三島由紀夫が割腹自殺した翌年、回りの友人達は就職の為会社を駆け回ってた。私は特に
やりたい仕事の目安もなかったし、もともと
大学に入ること自体が漫然としたものだった
。まして経済学部とは。あの経済原論の講義
は苦痛以外の何物でもなかった。たが一つ
だけ良かったことがあった。それはES(英語研究会)に入部し沢山の友達に恵まれたこと。
また顧問の新渡戸稲造(日本のお金5.000円札に描かれている日米の架け橋の役割を演じた人。武士道と言う本を書いた)の息子さんとの出会い。
そんな時私はニッピンの山登り用リュックに剣菱の一升瓶を一本詰め込み、現金20万を懐に横浜埠頭からナホトカ号に乗って旅立ちました。帰りの切符は持っていません。東京湾を北上。二泊三日52時間でナホトカに着く。津軽海峡に近付いた頃から船は大きく揺れ始め船酔いに落ち入る。大間を過ぎた辺りは最悪だった。翌日やっと船酔いがおさまるも食欲はゼロ。当時ヨ-ロッパへ行く最も安い方法がナホトカ経由でした。それは中学生の時に読んだ小田 実の「何でも見てやろう」と言う本に触発された行動でした。未知の世界を見てみたい、金髪女性に対する憧れから取った行動でした。高校3年の時アメリカ人の女の子と文通してました。手紙が来るたびに便箋から漂うえもいわれぬいい香りに酔いしれてました。しかしその香りは残り香を残して
消え去った。私の趣味であるサッカーに
ついて話したところ彼女もすきだと、フット
ボールが。フットボールではなくサッカーだ
よ、と言ったところ返事はぷつりと来なく
なってしまったのだ・・・。
ナホトカからハバロフスクまではシベリア鉄道に乗りハバロフスクからモスクワは空路。
モスクワのクレムリンではKGB紛いの男に跡をつけられ、ホテルではウェイトレスに声を掛けても聞き入れられず夕飯も食べられない、代わりに社会主義の心ないサービスを充分味わい一泊し列車にてレニングラード(現サンクトペテルブルク)経由でヘルシンキへ。車窓には1人の農夫が上半身裸で畑を耕し、通り過ぎる農家の家並みがカラフルになったなと思った風景に、国境を超えたんだと気が付く。それまでのロシアは灰色一色の何処を見ても変わらないつまらなく、陰湿な景色でした。
ヘルシンキのユースホステルに泊まり、翌日ヘルシンキ大学校舎の前の階段に座っているとドイツ人に声を掛けられました。「North Capeまで一緒に行かない?お金は一切僕が面倒みるよ」VWのバンで旅行してて職業は軍人、30歳位でしょうかアルベルトと名乗りました。コペンハーゲンで留学してた高校の友達に会う予定があったが日にちは決まってなかったので車に乗ることにしました。後日このアルベルトがホモだったことが判る。
私はホモに好まれるタイプらしく大学でも
ESSの顧問だった新渡戸教授に誘われ自宅に行ったこともあり、またハウスキ—パ—のアルバイト先では日本人の男とアメリカ人が同棲しててポルノが散らばってる部屋でそのアメリカ人が向かい合って両手で肩をガッシリ掴みアメリカに行かないか、と誘われたこともある。更にロンドンでも同じ職場のジョンがカッコいい男と同棲してて自宅へ行きその男に紹介された。もう一 つ、日本に戻って旅行会社でインバウンドの仕事をやったのですが直属の上司がホモで、六本木のオカマショウに連れて行かれたりした。私はホモに対して偏見は持っていませんがどうも生まれつきその方面には興味が湧きません。
翌日から2週間に渡る旅行が始まった。国道E75を北上して30分位すると、ヒッチハイクしてる2人をピックアップして4人で行くことになりました。1人はロンドンのジョン、もう1人はニュージーランドから来たドジャースのサ—ドのタ—ナ—みたいな赤毛の髭ズラ男。名前は忘れた。2人共10代後半だった。
その日の夜からさっそく剣菱の出番がやって来る。美味い美味いと言って飲み続け貴重な一升瓶が2日で空になってしまっやた。
北上するE12に乗りロバニエミ経由で目的地であるハマーフェストへ。ロバニエミからは陽が暮れない白夜の世界。青空があるわけではなく、夜12:00を過ぎると太陽は水平線に弱い光を放ち一面、白い雲が陽をさえぎってる。冬には全く太陽が顔を見せない期間が3カ月。12:00を過ぎてもヒッチハイクが出来る。ヒッチハイクしてたのは現地の住人20歳前後のサミー人だ。ラップ人と言う呼び名は蔑称のようだ。部族によってはモンゴロイドの血が入っているらしく、私に彼は彼らの言葉で話し掛けてきた。
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そんなある晩ハマ—フェストでビールを飲みに街のバーへ出かけた。カウンターでビールをオーダーするとアルベルトが後ろを見てごらん、と斜め後ろのテーブルに目をやった。そこには金髪で目の化粧が濃い一見してそれと分かる30前後の女が煙草の煙を燻らせていた。北欧の北の果て、ハマ—フェスト・人口1万人いるかいないかの街でもあの種の女がいた。人間とは哀しいものだ。欲望と言う言葉がその哀しさを表している。
翌朝テントで寝ているジョンを起こしに行くと、テントからジョンと12・3の金髪の女の子が首を出してタバコを吸っているではないか。おい、おい、まだ中学へ行くか、行かない歳だろ、タバコもそうだがまだ早過ぎるだろ。北欧では女性は早熟だ、と言うことは知っていたがこれ程とは・・
後日彼女とは修学旅行でロンドンに来た時に再会する。名前はウェンケ、年齢は12歳。
入り組んだフィヨルドを眺めながら半島を下りトロムソに次ぐ大きな町トロンダイムに着く。ここでジョンと赤髭と別れ、以降コペンハーゲン迄アルベルトと2人になった。
アルベルトのアプローチが始まった。バンの中でポルノを取り出し、それを見ながら私の太腿に手が伸びてくる。私は払いのける。その繰り返し。次は映画館。ポルノ映画。暗い中で彼の手が動き始める。私はまた繰り返し払いのける。そんなことがあったが、私の拒絶にとうとう彼は諦めた。概してGayと呼ばれる人は人間的にいい人が多く、相手を思いやる気持ちは人一倍強く、労を厭わずまめな人が多いようだ。インバウンドの仕事をしていた時の上司は、インセンティブツアーでニースヘ行った際、炊飯器を持参。おにぎりを作り高島屋の紙袋に入れてオーガナイザーに差し入れする、と言うこまめさと気の使い方だった。
そんなこんなで最終地コペンハーゲンに着いたのはヘルシンキを出て2週間後であった。彼はドルトムントに母親と住んでいると言う。家に帰るお金が足りないので貸してくれないか、とも。私は$200を都合した。
コペンハーゲンで友達に会う。全寮制の秋川 高校で同室だった片岡で卒業後すぐにデンマークに来た。彼は北にあるグレナと言う町の高校に通っているが、今は夏休みでコペンハーゲンまで出てきてホテルでアルバイトをしてる、と言う。私も彼に便乗してホテルで働くことにした。しかし2日目に部屋の洗面台の水を出しっぱなしにして水が溢れて床が水浸しになり、即刻クビに。自分がしたことだから仕方ない、と思いなおしビールでも飲もうと近くのオープンカフェに行く。何が幸いするかわからない。そこでチーフウェイターのアシスタントとして働くことになったのだから。
大学でESSに入っていて英語にはある程度自信があったがまだまだだな、と痛感しロンドンの語学学校に送金して入学することにした。友達がドルトムント経由で行くべきだ、と言うので電報を打つとアルベルトは駅まで迎えに来てくれた。彼の自宅へ行った後職場である軍へ行き、銃の試射をやらせてくれた。20m位離れた人型の標的を狙って撃つのだが10発撃って1発も当たらなかった。アルベルトは全て当たり全てが8point以上だった。さすが軍曹だけのことはある。
イギリスへはカレーからフェリーで入った。入国審査官は小汚いジーンズを履き、リュックサックを持っている東洋人に不審な目を向けながら、学校とのやり取りの手紙の中に送金のレシートを見つけ入国許可のスタンプを押した。通り抜けたのは最後から2番目だった。このロンドンにこの日から4年半もいた、とは夢にも思わなかった。
続く
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(左端が私、右から3番目がカミさん)

